『ほろ酔い植物考』     マグワ   クワ科

                                       田城 松幸
    桑田碧海そうでんへきかいという言葉がある。桑畑が変わって青い海になる、世の返還のはげしいことの例え
  と広辞苑にある。養蚕の歴史は古い。日本書紀によるとカグツチ神とハニヤマ姫との間にでき
  たワクムスビ神の頭から蚕と桑ができたという。中国ではさらに古く、紀元前1500年頃の文献
  に養蚕の記述があるという。中国の蚕と桑はどんな神様がつくったのであろうか、あちこちに
  いろんな神様がいると話がややこしくなる。
   我国の養蚕は紀元150年頃から始まったようで、マグワはそれ以前に中国から渡来したも
  のであろう。ヤマグワはもとから日本に自生していたというのが定説。かって養蚕は我国の主
  要産業であり、ここに一つの数字がある。『1906年(明治39年)には生糸の輸出が当時の金で1
  億円を越えた。その後生糸の輸出はうなぎのぼりに増え、1925年(大正15年)には8億8千万円、
  輸出総額の34%、これに絹織物を加えれば、全輸出額の50%に達した。当時は、世界の生糸の
  産額の80%が日本で生産された』石井象次郎著『昆虫学への招待』 岩波新書。
   さらにもう一つ別の数字がある。1916年、牧野博士が生活に窮し、所蔵する標本を海外に売
  ろうとしたとき、ある篤志家が無償で3万円を援助してくれた。その金を現在の価値になおす
  と約9千万円だという。これから推察すると当時の輸出額は膨大な数字である、ということは
  分るが、私は子供の頃から算数とムカデは大嫌いな人間なのでそれ以上は分からない。
   明治以降の富国強兵政策を資金面で支えたのは「お蚕様」であったことは間違いない。それが
  侵略戦争にまで発展しなければさらに良かったのだが。
   やがてナイロンなどの人口繊維が発明されて絹は廃れてしまった。
   私が子供の頃にはすでに桑畑は無く、畑の縁等に所々見られる程度であったが、その実は食
  べ盛りの子供にとっては魅力的でムギワラで桑籠を作り、腹いっぱい食べた。その結果として
  口や便が紫色に染まり、時にはシャツやズボンも染まったがそんな事で怒られた記憶はない。
   養蚕はそうとう激しい労働であったようで、時には夜中にも「お蚕様」に葉を食べさせる必要
  があったようで、「桑摘みに おはれどうしのはだしかな 明平」などの句はその労働の一端を
  物語っている。また国を挙げて生産が奨励され、重労働であるが農家に貴重な現金収入をもた
  らす蚕は大事な生き物であったのであろう。それらが「お蚕様」という呼び方に集約されている
  と思う。一個の繭から1キロメートルの生糸が取れると、ものの本にある。
   花や実のない時期にマグワとヤマグワを区別するのは難しい、ヤマグワは葉先が尖り、切れ
  込みが多く深いという特徴はあるが、あくまでも相対的なもので、どちらとも判断しかねる固
  体がけっこうある。花はヤマグワが花柱が長く、実は長さ1〜1.5cm、マグワは長さ1.5〜2cm、
  ヤマグワのほうが味は濃く甘みも強いように思う。ただ、蚕の成長には歴然とした差があり、
  マグワが適しているという。「山の畑の桑の実を 子籠に摘んだは幻か」。わざわざ畑で栽培
  したのだから、これは間違いなくマグワである。

     黒く又 赤し桑の実なつかしき      高野素十